ルート66が生まれる歴史と背景

アメリカの道路の始まりは、もともとは、先住民達たちが踏みならしたあとに出来た「インディアン・トレイル」

←こんなカンジの道ですね!

多くの入植者がやってくるようになると、インディアントレイルは、開拓のため作られた「パイオニアロード」になり、開拓民の町を作りながら、駅馬車や郵便馬車が通るための道路となっていきます。

さらに開拓民は、西へ西へとパイオニア道路を広げていきました。

1869年にはアメリカ大陸横断鉄道が完成し、鉄道全盛の時代を迎えます。しかし、まだまだ馬車の時代。まさに西部劇の時代ですよね。ジャッキー・チェンの『シャンハイヌーン』や『バック・トゥ・ ザ・フューチャー3』の世界そのもの。

もちろん、この頃には、ガソリン自動車も発明されてましたが、超高価!・・とっても一般庶民が持てるものではないシロモノでした。
それでも、1901年には、アメリカ全土でナンバー・プレートによる登録制度が始まり、同年に、自動車愛好者達による「全国グッド・ロード協会」(後のAAAとなる)が結成されました。

1907年に「ヘンリー・フォード社」が フォード・T型を量産します。

←この車

いよいよ庶民が車を持つ時代突入です!フォードは流れ作業により、自動車を大量生産し販売価格を下げることにより、一般庶民も、所有可能となりました。1909年には、年間1万8千台もの台数を生産し、1913年に世界初の「ベルトコンベアによる組立ライン」を導入。

年間の生産台数は25万台を超え1920年までに100万台を突破し、アメリカの自動車の半数はT型フォードとなったようです。

アメリカの自動車産業がめきめきと発達してくる時代の到来です(*^-^)自動車が幌馬車にとって代わる時代になったんですね!!
それには、まず、東西を貫く道路の整備が急務となるのは必然。

1923年、ニューヨークとサンフランシスコを結ぶ「リンカン・ハイウェイ」(3,150マイル)が完成。
それに刺激を受けたオクラホマ在住の実業家、サイラス・アベリーが、南西部を貫くロサンゼルスからシカゴまでのルートを計画しました。
サイラスさんは、将来性豊かな、土壌の肥えたゴールデン・ステート、カリフォルニアに着眼点を置き、ロサンゼルスからシカゴへの道を着手し始めます。
しかし、当時のシカゴからカリフォルニアは、とんでもない未開発地域(━_━)ゝ....
在来の道路を整備して繋ぎ合わせ、新たな道路を新設し、ミシシッピー川のような大河川もあるし橋をかけるのも大工事、とにかく一筋縄ではいかなかったはずです。

それでも、1926年には無事完成!! シカゴとカリフォルニア州サンタモニカを結ぶ3,755km(2,347マイル)の道路、USハイウエイ66の誕生です。これが俗にルート66と呼ばれる道路となったわけです。 サイラスさんは、60の数字にこだわり、本当はルート60にしたかったそうですが、すでに、ルート60が出来上がっていたため、66としたというエピソードがあります。 この功績により、サイラスさんは、"Father of Route 66"(ルート66の父)と呼ばれるようになりました。

ルート66その後

さて、ハイウェイが出来れば、当然それに伴って、新たなビジネスが生まれていきます。
まずは、道沿いに、ガソリン給油所が出来て、カフェやモーテルが出来るのは必然的な流れでしょう。
当然、輸送のトラックが増え、トラック野郎がいっぱい行きかうようになると、これらを相手に出現したのが「トラック・ストップ」で、やがて「サービス・ステーション」へと成長してゆき、終夜営業や夜食のためのコーヒー、サンドイッチ等を提供するようになり、それがやがて「ドライブイン・レストラン」へと発展していったようです。
宿泊施設も、最初は道路脇に作られた特設キャンプ場で、一晩50セントの貸しテント程度から始まり、それが今日のモーテルに発展したようです。
物流の要であったルート66は、その後「メインストリート・オブ・アメリカ」の愛称で呼ばれるようになります。

1931年〜39年にかけては、大きな問題が発生します。
グレートブレーンの地帯(アメリカの中心を縦に線引きしたあたりの地域)で、ダストボウルが発生。

ダストボウルというのは、強烈な砂嵐の事で、そりゃもう、すさまじいものだったそうです。ほんの1メートル先も視界が利かず、昼でも外は真っ暗になり、とくに、テキサス、アーカンソー、オクラホマ州は、大被害に見舞われ、農業は完全壊滅状態になりました。

(ダストボウルは、決して天災ではなく、第一次世界大戦の後に続く生産過剰のせいで、農家は利益を得るために農業開拓を自然の限界まで行い、草を除去しつくしてしまったせいで、日照が続くと土は乾燥して土埃になり、それが巨大な黒雲となったそうです。)
とくにオクラホマは被害は大きく、農民は土地を捨て家財道具を売り払いボロトラック1台で、家族と共に、安住の地を求めて苦難の旅に出ることになります。

スタインベックの小説、怒りの葡萄は、オクラホマ農民一家が、新天地カリフォルニアで職を得るため、ルート66を通って苦難の旅をしていく物語でした。小説は、ピューリツァ賞を取り、映画もアカデミー賞作品となりましたが・・・実に悲惨なストーリーです。。。
彼らのようなオクラホマ農民の移住者は、オーキーズ(Okies)と呼ばれ、当時のカリフォルニアでは蔑まれ虐げられ、苦労の連続だったようです。これも、1つの歴史なんですね(-_-)
この小説の中で、ルート66はマザーロードと呼ばれ、それは、未だに語り継がれることになりました。

現在はインターステート・ハイウェイに取って代わられ、ルート66は、あちこちが寸断された地方道として残っているだけになってしまいました。 しかし、この道に郷愁を感じる人は多く、Historic Route66と呼ばれ、今なお、古き良きアメリカを訪ねて旅をする人々も後をたちません。

そういえば、TVドラマになった『ルート66』は、トッドとバズの2人の青年がシボレーのコルベットで旅をしながら、次々に事件に遭遇するストーリーでしたね。
このバズ役のジョージ・マハリスがリリースした「ルート66」は、1946年にボビー・トループが作詞作曲した名曲で、ナット・キング・コールや娘のナタリー、ローリングストーンズもカバーしている名曲です。ジャズのスタンダードとしても有名ですね。 曲のイメージに合わせて、後からこのドラマが製作されることになりました。

団塊の世代にとってルート66のドラマは、とっても懐かしいものでしょう。それに・・なぜか、ルート66には、アメ車がぴったり合うんですね〜。
アメリカ人の車好きにとっての最高の道楽は、「50年代60年代の名車に新しいエンジンを積み替えてリモデルしたヤツをぶっ飛ばすこと」だそーです。

>>>ルート66ドライブへ
>>>Topへ戻る